デレク シザーズ
横江 公美
日本の“失われた10年”は20年目に突入する。そして、ここ数年は、膨大な公的負債と景気の停滞はアメリカもEUも抱える問題となっている。先にこの問題を経験する日本が解決への道を見出すことができるなら、同様の状況に悩む他国に対する青写真となったはずである。
残念ながら、そのような進展はいまだ見当たらない。他の多くの国々が現在直面しているように、日本は債務削減にあたり政治的障害に直面している。反証があるにもかかわらず、超過歳出が経済を活性化させるという確信がいまだ根強く広がっている。日本だけではなく回復を望む国々は、財政政策を施行するにあたって、この考えを払拭しなければならない。
1990年代、日本が経済をリードする立場から転落したことは、財政政策が原因ではないが、数年にわたる不況、そして相対的生活水準の低下は、財政政策の失敗と密接に絡み合っている。労働力の減少と限られた土地しかないという状況の日本では、資本からの収益が低く、技術革新が低迷している間は、経済成長は見込めない。過剰な国家の経済的役割とほぼゼロ金利の大量の財政融資からの結果が、今の問題に帰結している。構造改革が日本の未来‐多くの目標の中でも特に技術革新を促す為‐には必要不可欠である。重大な問題がいくつかあり徹底的な論議が必要であるが、まず、今は、資本からの収益を上げる為に国債の発行を削減しなくてはならない。年間財政赤字と債務の巨額さに、その改善は気が遠くなるような話しである。
どのように赤字解消するかが問題ではなく、赤字を解消すること自体が重要である。最初に取りかかるべきは予算“特別”会計であろう。一般会計と重なり多くの出費をまかなっており、予算評価にはもってこいの道具だ。債務の程度からして、地方自治体への財政支出と、助成を通しての経済への国家介入は特に不適当である。それぞれを大きく削減しなくてはならない。思いきった削減は年金支出を適度におさえることを可能にし、財政不均衡を縮小する。[1]
純粋な財政削減への反論の一つに 非常に短期的であったが1997年に行なわれた財政規律の試みがある。しかし13年以上続く不況の後では、もはや意味を持たないものである。結果からあきらかなように、政府は引き続き成長を支援するのではなく、妨げている。ある者は未だに今こそ財政緊縮をすべき時だと思っている。市場環境が良好な時は必要な改革にあまり痛みが伴わないのだ。しかし市場環境が良好であった時期はここ20年間に何度かあったが、何もなされていない。もし日本が今行動を起さないのならば、さらなる後退を余儀なくさせられるであろう。
ケインズ式停滞
日本経済は1992年の規模とほぼ同じであり、これは過去の世代におけるもっとも驚くべき経済統計のひとつである。これはまた5年目あるいはそれ以上の実質成長停滞に入っているアメリカ、そしてその他の国々に対する紛れもない警告である。[2]
この失敗にはいくつかの原因がある。その中でも致命的なものは、ケインズ主義に対する甘い信仰である。日本の政策担当者や一部の海外の専門家は、ケインズ式刺激政策に対し神学とも思える信仰を持っている。[3] 一部のケインズ主義者は危機の時、あるいは危機のせまりつつある時に政府の行動を求める。なぜなら民間企業は不確定ゆえに麻痺してしまうかもしれないからだという。日本の危機はすでに20年間続いており、以来ケインズ式刺激政策は継続して適用されている。
結果は明白である。近代経済史の中で平和時の債務を膨大に拡大させたのみならず、成長がまったく見られない中で、政府はすべての不況時にさらなる刺激策で対処し続けてきた。これでは何の意味もないのである。そして膨大な赤字財政支出は経済への脅威であると見なされている。支出が続き、改革は何もされていない。そして日本は重い足取りで歩き続けるのだ。
短期対策が議論の対象であるが、長期経済成長は何ら不可解なことではない:それは必然的に土地、労働、資本そして技術革新から派生するもである。こういった要因からの生産性が競争力の核である;他の課題に対する政策は長期的に2次的なものである。(円の価値については重要度が過大評価されている。)
日本の労働力の状況はよく知られているように困難に面している。高年齢層は当然ながら成長の為の労働力としての貢献が限られる。この困難な局面に対して、労働生産力は妥当であり、労働市場の柔軟性は向上した。しかしながらさらなる柔軟性でさらなる成長が期待できる。パートの雇用状況改善を図り高年齢層と女性の雇用活性化をすべきであり、伸びつつある非伝統的雇用形態も安定した伝統的雇用形態と統合しなくてはならない。[4] それでも人口統計は労働力の貢献に制限を加えるのである。
この状況は土地に関しても同様である。日本はアメリカよりもかなり前から、地価の高騰が富の維持において、まったく頼りない手段であることを示してきた。土地の成長貢献度は、現在価値のある自然資源に恵まれない日本では、不特定の期間たいへん小さいものになるであろう。しかしもし土地が、不要な社会基盤事業計画や海外で産出されるべき農業生産に無駄に利用されることがなければ、向上の可能性はあるのだ。
公共政策の変更が技術革新に大きく影響する。技術革新に大きく頼っているアメリカに比べて、日本では政府が企業部門で重要な役割を果たし、市場獲得の為に企業の規模拡大や世界的ブランド認知を援助している。これらの機能には利点もあるが、恒久的な広い範囲での技術革新にマイナスに働くこともある。そのような技術革新は主に、古く停滞している企業を押しのけ、新しく小さい企業から生まれる(たとえばシリコンバレー初期)。小さな企業を育てるだけでは十分ではない。もし大きな非効率的な企業が倒産しないとなれば、技術革新の範囲と活力は時間とともに悪化してしまう。技術革新を活性化させることが今後の研究の重要な課題である。
おそらく、もっとも重要な問題は成長への資本の貢献度であろう。日本の比較的少ない土地賦存量と縮小しつつある労働力の意味するところは、資本が重要な役割を果たさなくてはならないということである。財政政策が資本による成長を不可能なものにしてしまったのである。
ヘリテージ財団の経済自由度指数[5]によると、国の腐敗からの自由度17位を含めて、日本は世界で22番目に経済的に自由な国である。しかし日本は、財政的自由に関しては、非常に残念なことに145位(179カ国中)である。政府の支出とそれを支える国債の発行が日本国内の資本配分を支配している。これは非常に憂慮すべきことである。当然であり驚く結果ではない。
国家財政を支援するための資金はどこからともなく現れるわけではない;民間部門から公的部門へと移譲されただけです。特定の公益、- 司法制度、国家防衛、環境保全 - があり、これらは連帯して供給されなくては、供給不足に陥ってしまう。これらの公益を除き、政府の借入と支出は単に資金を置き換えているだけである。貧困層への無償給付のように置き換えることに意義あるものもあるが、成長を阻止するのである。
成長への障害は政府借入によって高騰する資本によるものではない。むしろその量の大きさによるものである。日本政府の大量な国債が経済市場を歪曲している。不況の状況にあって、私的部門がまだ十分な資金がある時、それが大量に公的部門へと注ぎ込まれたのだ。政府が今までになく資本の主要な利用者になったのである。
加速される政府独占による当然の結果はその低資本収益である。民間部門は利益の為の投資を、すなわち富の創造と拡大の為に行うのである。公的部門は多くの目的で投資することもある。復興産業投資など大変価値のあるものも含まれるが、富の創造はまずあり得ない。国債発行を通して巨額の資金が民間部門から公的部門に流れる時、経済全般にわたって、必然的に低い商業収益しか見込めない。土地と労働力の制約により、この収益は日本の成長にとって極めて重要である。その結果、国債発行が経済成長を15年にわたって止めてしまったのである。
この結果からみても当然ながら、ケインズ主義の見解は遅れている。土地と労働力の貢献が少ないからこそ、成長が起こる為には資本収益が高くなければならない。拡大している政府の役割が資本収益を減らしているので、赤字をなくすことにより国債発行を停止しなくてはならない。さもなければ、成長の見込みは最小限であろう。
債務への対応
ケインズ式停滞に関する結論は、収支を合わせるという必要な修正を行うのが難しいなどの理由で慎重に避けられてきた。2011年末における財政債務は公式には発表されていないが、2011年10月時点で千兆円(現交換比率13.2兆ドル)を突破した。三分の二以上が1995年以降、恒久的ケインズ式刺激策⁶施行中に累積されたものである。[6]日本の昨年度国民総生産はほぼ495兆円で借金はその200パーセントを超えている。現在あるいは近年、戦争にかかわっていない経済発展国の中では過去に例を見ないレベルである。
他の経済発展国の中で、経済協力開発機構の2011年推測によると、ギリシャの債務は国民総生産の165パーセントである。ヨーロッパの他の危機的な国は国民総生産の130パーセント以下で、債務の大変多いアメリカでさえも98パーセント、日本のレベルの半分以下である。対国民総生産比を見てみると、2007年以降の日本の債務の増加において、日本よりも危機に瀕しているのはアイスランドとアイルランド両国のみである。[7] 日本は今日まで危機、あるいは少しの緊縮のそぶりさえも見せていない。
その理由は、日本の債務がほぼすべて国内で保有されていることである。一般的推測によれば、95パーセントは、銀行、保険会社に代表される国内の事業体によって保有されている。他の見方をすると、債務のほぼ半分は、ゆうちょ銀行、国民年金基金、そして日本銀行自身を代表とする政府関連機関によって保有されている。[8]
債務が国内で保有されているという事実は、強みではなく弱みである。政府関連機関は特に、債務に振り回されている。低利率に保たれた国債―わずか1パーセント―は資本の国内収益がとても低いことを意味している。[9] 労働力と土地の制約の長期的影響もあり、資本収益のみが成長のおもな決定要因である。したがって、公的債務の、低コスト、完全国内融資によって、日本はまさに自身の経済成長を見殺しにしているのだ。
解決策は国債発行を中止することである。これは直接的金利引き上げではなく、政府によって大きく歪曲されることなく金利を変動させ、資本の公的財政への流用を止めることである。これはまた、今が変革の時であるかどうかという疑問にも答える。金融面から見れば、金利上昇の可能性は現行では禁止すべきものと見られている。このことはもちろん今まで何年間も言われ続けてきたが、財政危機の問題は過去3年以上も置き去りにされてきた。ここ20年間、金融政策は財政政策に従属してきた。すなわち低利率が公的部門(借り手)を助け、私的部門(最終的貸し手)を妨害している政策である。公的部門を優先することは明らかに失敗した。
財政改革にも危険は伴っている。限りのない債務の累積に慣れてしまった市場にとっては大きなショックであろう。しかし、1997年の不況と政府の失態は、1998年から2011年までの停滞とその他多くの政府の失態よりもひどいものだったであろうか。1997年の財政緊縮は5年におよぶ刺激策失敗の後起こった。その時日本はまだ世界第2の主要経済であったが、以後12年間は世界生活水準の向上に比べ、後退の歩みに転じた。
たとえば1992年、韓国が日本より裕福になることは不可能のように思われた。今それは必然に思われる。日本の真の選択肢は生活水準のゆっくりとした低下、あるいは返済不能による突然のものであろう。予算削減の本当の危険性は同じ結果がさらに早期に起こることである。
問題はその規模の大きさと構造的であり、予算削減は痛みを伴う手順である。債務支払いを除くプライマリーバランスの赤字状態(Primary Deficit)に関するの論議は、政治的空想である。国債発行が現在の政府の活動を融資するものなのか、以前の国債発行を補うものなのかはまったく関係ない。いずれにしてもそれは民間部門から資本をほぼ利息ゼロで消耗させる。完全な赤字解消がなされなくてはならない。さもなければ日本経済は停滞あるいは後退するであろう。
次期予算の実質赤字はほぼ44兆円(5400億ドル)[10]、国民総生産の9パーセントである。これは楽観的な見解である。歳出のほぼ半分は債務でまかなわれている。税収ではない。すなわち予算は本来の2倍であることを示している。[11]
それほど重要ではない税金
財政方程式の一面は税金である。日本では税率引き上げに注目が集まっているが、それは財政混乱の解決策ではない。課税にはいくつかの方法があり、したがって税負担の測定にはいくつかの方法がある。減少したとはいえ、日本には純国家貯蓄があり、基本的に税率引き上げ可能である。長期に渡る過剰な法人税の大幅引き下げも検討されている。次のステップは、実際に税金を払っている法人の数が少なすぎるので、税基盤を拡大することである。
単純な税率も労働にかかるさらに複雑な実効税率も、最も発展している経済国家に比べて低くなっている。[12] 赤字を減らし、国債発行によって民間部門から公的部門に移譲された資金の量を減らすひとつの方法は、個人への段階的増税導入である。現在と以前の政府は高い消費税を提案した。さらに現在検討中のものとして5パーセントの付加価値税を2015年までに段階的に10パーセントまで引き上げるという案もある。[13]
そのような増税は不況を引き起こすことはない。やがて経済成長と税基盤の拡大によって税収は増加するはずである。しかしながら財政破たんの解決にあたり、税金には少しの役割しかないという説得力のある理由がある。復興支出にあてる一回限りの増税は妥当かもしれないが、構造赤字の解決にはならない。[14] 提案された消費税増税は、よくて赤字の3分の1以下を解消するであろう。停滞環境での大幅な増税は、現在急激に増えている民間活動の流出に寄与する危険性がある。[15]
そのかわり、税政策は短期税収中立の改革を強調し、長期的に税収増加を見込める成長を促すものでなくてはならない。これは今後考慮すべき重要な課題である。しかし支出規律ほど重要なものではない。なぜなら日本はすでに赤字から抜け出せる地点をとっくに越しているからである。いずれにせよ、消費税のような付加価値税は、透明性を低下させ、成長を促す方法ではないため、構造的赤字の解消には役立たないであろう。
さらに税制改革を実施する政府の能力は支出を減らす能力と同じくらい困窮している。二つの党の総理大臣から提案された消費税増税でさえも、ここ数年論議されているが何も実行されていない。[16] 大幅な増税は支出削減と同じほど、論議をかもすだろうが、効果は少ないであろう。現状維持を打ち破る為の政治的努力は、支出削減による、商業活動への資金投入増加という、より効果的方法に向けられなければならない。
まず特別会計を
支出削減は予算特別会計から手をつけると一番わかりやすい。1985年、経済と財政状況が比較的健全である時から、2011年まで、一般会計は75パーセント増加した。これはその期間にしては相応な数字だ。1985年に、特別会計はすでに一般会計の二倍だった。そしてそれ以降その三倍以上になっている。現在は一般会計の四倍以上になっている。[17]
特別会計と一般会計がなぜ別々にされているのかはまったくはっきりしない。特にお互い重複するところがあり、予算をいっそう不透明なものにしている。日本の特別会計は、防衛費など通常含まれるべき予算科目を含まない。しかし年金などその他の多くのものを含んでいる。特別会計の急激な拡大は、それに含まれている支出が赤字拡大の主な理由であることを示している。
したがって一般会計から始まる予算分析と改革は最初から困難なものであった。なぜ最近の総理大臣が特別会計の件を直接議題にしなかったかは、まったく不思議なことではない。2011年度の割り当ての半分が債務返済に充てられたからだ。これは政治的窮迫だけでなく、財務的難点である。行動を起さなかったことが予算の多くを利用不可能にし、解決策をより痛みを伴うものにしてしまった。
債務返済を含まないでも、特別会計の三大項目だけで支出の40パーセント以上を占める。これら三項目に集中することは、一般的な予算分類、例えば社会保障を強調する予算分類とはかならずしも一致しない。これらの三項目を選んだ理由は、借金返済のために柔軟性がなくなったにもかかわらず、少ない政策を施行するだけで多くの進歩を成し遂げられることを示すためだ。
それらはさらに個人、地方自治体、そして法人へ割り当てられる。地方自治体への財政支出については次の部分で述べる。特別会計削減の主なターゲットは、年金と助成金である。
労働力の縮小は周知の現象である。早期年金はますます健康で長寿を保つようになった人の働く意欲を妨げる。;早期退職という贅沢は10年も前に余裕なきものになっている。[18] 受給資格の改定は年金の割り当てを15パーセント以下に押さえることを目標にすべきである。この数字は独断的なものである。;特別会計の年金の割合が、どこを削減すべきかを明確にし、この特定の数字が比較的、大幅な削減の必要ないことを示している。15パーセント以下への削減が2011年会計年度の赤字をほぼ4分の1も縮小する。
さまざまな助成金に取り組むことで、より大きな削減がもたらされる。経済が停滞し、借金が国民総生産の2倍以上という状況で、どんな企業援助もまったく正当化されない。財政的影響以上に、国家の経済介入は技術革新を妨げ、資金配分を歪めてしまう。実際、これ自体重要な問題だが、財政的歪みよりも把握しがたいものである。金融経済と実質経済両方のために、すべての助成金はただちに取りやめるべきである。政治的経験からこれは困難なことだが、半分の削減によって、19兆円(2300億ドル)という総支出節約になる。年金の削減とともに、この政策で赤字の3分の2が解消される。
一般予算と地方予算
残念ながら、特別会計の占有と日本の異様な予算重複は、残りの支出が比較的少なく、さらなる節約を見つけることが困難であることを意味する。借金返済はいまだ交渉の余地がない。社会保障支出の主な部分はさまざまな年金プログラムで、特別会計のさらに大きい年金部分と重複していて、すでに削減対象になっている。
公共事業支出は、おそらく驚くべきことだが、ここ10年間で縮小し、現在一般予算の6パーセント以下である。防衛費はだいたい公共事業支出と同じくらいである。;おそらく驚くべきことではないが、これも2000年に比べ、少なくなっている。その他の支出は2009年以降半分に減少し、予算規律の成果があらわれている。[19]
残るのは地方自治体への財政支出である。特別会計と一般会計の重複による複雑さが、国家、地方財政の役割分担の難しさもからみ、さらに複雑になっている。少なく見積もっても中央政府が地方財政収入の、27兆円(3300億ドル)をまかなっている。[20]
これは少し理解に苦しむ。中央政府の地方自治体への支払いは、おそらく政治的理由で、国によって命じられた政策あるいは地方政府の支出援助への支払いのかたちをとる。日本政府は世界で一番債務の大きい事業体にもかかわらず、地方の相手に援助をしている。財政支出はとても維持できない空想から成り立っている。一般市民に政府のプログラムの出費の間違った印象を与える。なぜなら、そういった政府のプログラムは、実際よりかなり安くなっているからだ。たとえ正当化が許される場合でも、中央政府が地方のプログラムを支援する余裕はないし、近年、真の意味で成し遂げられていない。
地方自治体への財政支出は長らく論議されている政治的懸案で、現在、新しい政党によって再び議題にされている。もし支出の責任が地方に分散されるのであれば、地方自治体は見返りとして、それを補う収入を要求する。しかし、もし地方での支援があるならば、そこで追加的税収を見つけることはできるであろう。もし地方で歳入をおぎなうことができなければ、支出削減が人々の意見を反映したものになるであろう。行政単位が異なれば資金調達能力も異なるが、この事実は削減を予定する理由なのであって、削減を無期限先送りにして行政の増大を待つための理由ではない。
財政的地方分権は過去においては検討されたが、より貧しい地域の反対によって分散的にしか施行されなかった。成長は停滞したままで債務状況は大きく悪化している。すでに時間は残されていない - 中央政府からの財政支出はただちに停止すべきであり、歳出は地方ごとに決定されるべきである。財政支出を半分に削減するならば、赤字を13兆円(1500億ドル)減らすことができる。
結論:変革は可能か
日本の財政政策のひとつの問題は、広く普及している幻想である。それは、今回どのように20年間成長のない国民総生産を需要刺激によって押し上げるのかという議論の形をとる。歳入が全歳出の半分もまかなえない中、一般会計のみの収支均衡を目標とする、あるいは1997年を1998年から2011年までの期間よりさらに重要であるとみなすといった論議である。改革の時期とその内容については難しい質問である ― 改革の必要性は難しくはない。
ここで提案することは、年金支出をどうにか削減し、企業体への政府支援を大幅にかつただちに削減し、地方自治体への財政支出を長期間で大幅に削減することである。これらの線にそった政策は、年間赤字を短期的に70パーセント減らし、残りのほとんども、新しい資格規定を完全に施行するまでの数年間で減るであろう。残された赤字は復興支出が減ることによってなくなり、実際、余剰に転じるかもしれない。危険も伴うが、他の手段ではまた失われた10年間、すなわち政府の成長を促す政策に反して、実際は不況を必然的なものにしてしまう期間になってしまう。
もし日本がこの失われた10年間を回避することができるなら、その例が間違いなく他の国の手本となるであろう。他の国は余裕のない補助を削除し、地方への支出を地方分権化(したがって民主化)し、そしておそらく経済破綻によって余儀なくさせられる前に、年金問題に取り組むであろう。日本は世界経済指導国家の立場にもどることができるであろう。
しかしどの国の予算案も、構造的政治機能の不全を克服することはできない。機能不全は、慣性によるものとまっこうからの反対の形をとって現われる。慣性によるものはあきらかに、そしてはっきりと、郵便局に関する問題など、重要な予算関連改革の際見られるであろう。[21] 年金改革でも見られるであろうが、この提案では年金改革は予算修正の中心的なものではなく、特に負担になるべきものではない。
年金資格は確かに難しい問題ではあるが、国家補助と地方自治体への支援の大幅な削減はそれほど政治的に害があるとは思えない。これらはあきらかに、前例のない財政破たんの危機に面している政府がとるべきステップであるとともに、年間赤字の半分以上をたやすく解消できる手段を提供している。もしこれらも「不可能」であるならば、唯一残された選択は、やがておとずれる債務不履行を待つことであろう。[22]
世界はその可能性を恐れるべきである。日本の債務は国内のものである。そして債務不履行の場合でも国際社会によって管理は可能であろう。しかし日本とて例外ではない。他の国と同じである。もし日本がその財政問題に直面する勇気を奮い起さなければ、他の国々も同様に失敗することになるだろう。
翻訳者:ロジャー ルイス